スポーツカーと暮らす

お彼岸の中日。あんまり春爛漫なんでロードスターを天日にあてて虫干ししてみた。
確か2月の中頃に片道13kmの市役所まで乗って行ったきりカバーをかけて寝かせていたと思う。その前に乗ったのは昨年の11月にオイル交換をしてもらった工場への往復6kmだったかな? 来月は車検なんだが、前回車検を取ってからの2年間で走った距離は800kmあまり (´・_・`)

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もう今じゃ誰かと車の話をするなんてことはほとんどなくなったけれど、別に車なんて趣味でも楽しみでもない人に「2年で1000km走るかどうかなんですよ」というと、大抵は「贅沢な趣味だねえ」と答が返ってくる。
多分彼の人たちは嫌味で言ってるのではなく、さして深い意味もなく反射的にそう呟くのだと思う。それは一年中仕事で全国や全世界を駆け回っている人に対し、「仕事とはいえ色んなところに旅行できて羨ましいです」と他意なく言うのに似ている。
贅沢な趣味だねと言われ、僕はヘラヘラしながら「ええ」とか「まあ」とか答えてはいるが、2年で800kmしか走らない車というのは実質自動車税と任意保険料以外の維持費はかからないものだ。その任意保険も僕のような年齢になり、加えて1年間の契約l走行距離を3000km以下に設定すると保険料はウソみたいに安い。

僕は小さな頃から車が大好きだった。
だけど昔から愛車に市販のパーツを付けて喜ぶ楽しみはなかったし、コツコツと自分で整備する喜びなんてのもなかった。だからと言って洗って磨いて愛でる、所謂「盆栽」というような愉しみもない。だからいつも車好きを自称する人たちとは楽しみ方が異なっていたし、故にそういう人たちと付き合っても苦痛を感じることが多かった。
自分の車であてもなく走り続けるのは大好きだったけど、今はもうそれにも飽いてしまったからオドメーターの数字は2年間で800kmしか増えないw それでも僕にとって「スポーツカー」という昭和的な、あるいは60年代的な言葉の響きと意味は特別なものだ。それは箸や鍋や釜の対極にあって、人々の実利的な生活には本来必要がなく、あったとしてもなんの役にも立たないもの、たとえば芸術なんてものが持っている価値を指している。それは燃費とか、維持費とか、再販価値なんてものとは相容れることのないとても神聖で、情緒的なものだ。
じゃあ僕が神聖で情緒的な古いスポーツカーとどう付き合っているのか? というと、うまくは言えないんだが「共に暮らす」ことの喜びを得るためなんだろうなと思う。

それはたぶん、我が家に住まう猫たちとの接し方と同じものだと思う。僕が6兄妹の猫たちに強いるのは朝晩5時の食事時間だけ。それ以外には彼らに何も足さず、彼らから何も奪わない。あるがままに、望むがままに、飼っているのでも飼われているのでもなく、一つ屋根の下で共に暮らしているだけ。僕と猫たちとの間には優劣も序列も上下も強弱もない。僕たちは互いに信頼し、与え合い与えられ合う友達なんだ。そして僕の喜びは、あるがままの彼らを見守りながら共に暮らすことに尽きる。

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今年28歳になる古いスポーツカーも同じ。時と共にボディは色褪せ、ボルトやアームは無残に錆び、ゴムやガラスは疲弊し朽ちていきながら、あるがままに、なされるがままに僕と暮らしている。台所の大きな窓を覗けば、百日紅の向こうに小さな2座の車が佇んでいる。気がつけば猫がいて、気がつけば古いスポーツカーがいて、理解があるのか呆れているのか奥さんはそれを傍観している。それが今の僕の暮らし。

だけどコロナウイルスの疫病禍で、仕事が減って家計を圧迫するようなら車検切って放置かな? 現状でもほとんど放置に等しいもんねw 我が家の優先順位でいくと猫>人>車なのは言うまでもない。



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