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ぶらりごろりぱくり

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義母の四十九日で帰った国東でいろんな人に会って来た。
僕は人と会うのがあまり好きではない、というか好きなのかも知れないけれど苦手なんだな。それに日頃あまりにも人と会わない暮らしをしているから、誰かと会うだけで身構えて疲れちゃうのかも知れん。
今回は随分と沢山の人に会って、ああ色んなところにいろんな人が生きているのだなあと改めて思った。

自分が世のしきたりで言う定年みたいな歳に近づいてくると、自ずと付き合う人もその前後の人が多くなってくるのは当たり前かw
この数年そういう世界に身を置いてみてよく考えることは、たとえば一つの職場を「勤め上げた人」の了見の狭さというか、話のつまらなさみたいなもの。誤解しないでもらいたいが、そういう○○一筋30数年といった見識も或る人々にとっては魅力や含蓄に富んだものなのだと思う。ただ僕にとってはほとんど魅力のない世界だというだけ。

公や民を問わず○○一筋30数年というからには、ともかく30数年間足元の位置は微動だにしなかった訳で、そういう人たちの見識というのは全てが同じ位置に立ったまま、仕事や旅行や趣味による見聞のみであると思う。
そしてタチが悪いのは、そういう人に限って自分の価値観が絶対正しいと信じ込んでいることが多い気がする。たぶんそれは同じ価値観を共有する世界の中で30数年を生きて来たからじゃないんか? 意見の対立とか、価値の違いみたいなものを排斥し、否定しながら生きて来たのではないかと勘繰ってしまう。
実際定年退職者の多い別荘地なんて所に暮らしていると、結構な比率でそういう人がいたりしますよ。もう自分=世のしきたりみたいな人が。僕はそういう人と対峙する度に、賢く歳をとるのは容易なことじゃないなとシミジミ思う。

今回国東で会った人たちは、そういう意味では足元の位置をあれこれと変えてみた人たちばかり。そういった人たちの生き様は○○一筋30数年と違って聞いていて楽しいし、興味深いし、魅力に満ちていた。
人というのは基本的に生まれて、生きて、死ぬだけ。例外は微塵もないと僕は思う。だから僕にとって誰かと誰かを峻別するものがあるとすれば、それはその人がどう生きたかだけ。
僕自身は何度か仕事を変えたけれども、半世紀近く住んだ東京を離れたことで変わった生活に大きな価値を見つけている。
曰く、井の中の蛙大海を知らず。
何もかもが犇めく大都会に揉まれるだけが生活ではないんだよね。井の中で大口を叩いて偉そうな顔をするだけが生活ではないんだ。
と、思わせてくれた国東行脚だったなあ。





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