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ぶらりごろりぱくり

2刷の見本が雷鳥社さんから送られてきた。

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同梱されていた新刊案内の小さなリーフレットには手描きのらいちょうくん。
秋に出る新刊案内のリーフレットだけど裏表紙には新刊ではない「話題の本」が。

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僕自身はたまたま出会った野良猫や捨て猫たちとの暮らしを綴っただけ。その暮らしがたまたま街を遠く離れた桃源郷、あるいは人外境だったというだけ。自分にとってはそれ以上でも以下でもない日々の記録でしかない。それはこのブログを当時から読んでくれている人なら分かっていると思う。
もしその愚痴に塗れた記録のどこかに某かの物語があったのだとしても、主役は語り部ではなく猫たちであって、本の中へ閉じ込めた悠久の時を食むような山での暮らしも僕が望んで実現したものではなく、ましてや本の出版を意図して準備されたものでもない。
あの頃のすべては時の成すがまま。カッコつけずに言い換えればただのズルズルな成り行きみたいなもので、なんとなく移り住んだ山奥の藤棚から6個のボタ餅が落ちてきたようなものだと思う。

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自分自身や自分の作った物に対する冷静な批評や批判はなかなか難しいもの。
とくに歳を重ねた人間は狭小な自己礼賛と肯定で凝り固まっていることが多いと思う。だから僕は、たとえ部分的にでも自分の関与したものが僕の与り知らない書店のどこかに値札を付けられてポンと置かれたとき、数多並ぶ本の中から誰かがそれを手に取り、
その中の誰かが大枚を叩いてくれたこと自体が驚きでしかない。
そして顔も知らぬ人たちから聴こえてくる読後の声や、出版社さんにとっては遅々とした歩みであったとしても、こうして増刷に至った過程は盲目的で狭小な自己礼賛などではなく、少なくともこの本が世界から黙殺されたまま消えていくようなものではなかった、
という証なのだと思う。それは出版に尽力してくれた人たちと猫たちの功績であって、僕がしたことといえば6匹の子猫に食事と寝床を提供したのに過ぎない。

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当の猫たちは大病もせず、傷の残る怪我もせず、車にも轢かれず、時々は兄妹喧嘩をしながらもなんとなく兄妹らしき結束を保って、今も朝と夕方の5時にはご飯を食べに帰ってくる。けれど、もうあの山を駆け回ったことも忘れてしまったんだろうな? と思うとちと寂しい気もする。
来週末には一年半ぶりで国東へ行くんだ。もう一度6つのケージへ彼らを押し込んで、フェリーで海を渡って連れ帰ったなら、彼らはあの山や小径を思い出すのかな? 朝夕5時に犬のお巡りさんが聴こえると、今では板で塞いでしまった猫ドアのあった家の壁から、中へ入ろうと列を作るのかな?




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