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ぶらりごろりぱくり

プラ船を埋めて作ったニセモノ池の周りに、日陰になった道路から剥ぎ取ってきた苔を
敷き詰めてニセモノ風情を演出してみた。

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家の修理をアレコレやっていると技術論や方法論を学ぶ為にネットを頼る。
そこには修理だけでなくリメイクなんぞという言葉の元に様々な試行錯誤が並んでいる。
安っぽい化粧合板の棚にペンキを塗り、わざと紙やすりでこすって少しだけ剥がすと、
「南フランスの農家にあるような古びた雰囲気の棚」になるのだという。
マジかよw
僕は大分県の養鶏農家なら一軒知っているが南フランスの農家になど行った事がない。
だから確かな事は言えないけれど、多分、きっと、おそらく、南フランスの農家にそんな
みょうちくりんな棚はないだろうなぁという気がする。
だから陽の当たらない道路から剥ぎ取って池の淵へ貼りつけた苔も同じことで、
いくら苦心を重ねたところで出来上がったものは所詮○○風の偽物でしかない。

こうした陳腐な営みが教えてくれるのは「時」の内包する価値みたいなものだと僕は思う。
選択ツールで範囲を指定して、セピアだの古新聞だの古写真だのと名前の付いた
フィルタをかければ一瞬で50年を刻み込める暮らしに慣れてしまったら、
僕たちは塗ったペンキを紙やすりで擦りさえすれば、南フランスの農家が積み重ねた
半世紀を一瞬で再現出来た気になる。でもそれは大いなる勘違い。
まるで別次元の、偽物の、インチキの、雰囲気だけの、○○風な中身空っぽの
誤魔化しでしかない。万物が時を等しく過ごすように、万物に一年という時間を刻み込むには
等しく一年が必要だ。

カミさんは黙々と庭の草を取り、土を耕し、種を蒔いてを繰り返している。
僕はこんなにも楽しそうに何かに熱中している彼女を初めて見たが、
土いじりや庭造りという楽しみの悠長さは気の遠くなるものだとよく考える。
今日植えた数十センチの苗木が僕の背を越え、天高く育つのはいつの日だろう?
半年前に植えた腰の高さほどしかない銀杏が見上げるほどになるのはいつなのだ?
多くの人がそれを待ち切れず、多くの人が愛し続ける事に飽いてしまう。
新しいものの誘惑に囚われ、次々と愛情の対象を取り換えていく。

けれどふと気づいた事がある。
毎日庭の草を抜いて一つずつ種や苗を植えていく人の楽しみは、
何ヶ月後かに咲く花や実をつける果実だけではないんだろうということ。
時を刻み時を経た物が結果としてアンティークやヴィンテージと呼ばれ持て囃されても、
野に咲く花や実は結果なのではなく、どちらも一つの通過点に過ぎないんだろうな。
僕には子供がいないから分からんが、子供の成長を見るのと同じで、
結果を見届けずに自分が先に死んでいく宿命的な楽しみなのかも知れん。

僕はプラ船に貼り付けたインチキ苔を眺めながら、
自分の重ねて来た時の空疎さみたいなものに溜息をついている。




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