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ぶらりごろりぱくり

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めっきり耳を掻かなくなったひでじと残り少なくなった東京土産。
身の回りからポツリポツリと「東京」の文字が消えてゆきます。
どこへ消えていくのかというと僕の腹の中。
辿り着く先は糖尿の森。

シウマイとかくずもちとか足の早いものばかりが多かったんで、
カミさんが気を利かせて日持ちのするものも買って来てくれたんだけど、
いよいよ賞味期限が迫っているので早く食べなくちゃな。
食べ物は美味しく食べましょう。

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昨夕、カミさんがいきなり「友達の家へ野菜を届けてくる」と出かけていった。
なんでも夕方になって婆ちゃんがてんこ盛りの野菜を収穫してきたそうで、
収穫したら早めに食わないと不味くなるのは目に見えてるが、
幾らなんでもそんなに大量には消費し切れない。
食べ物を粗末にするのは良くないことだと教えられたけど、
消費することと美味しく食べることは本質的に意味が異なる行為だ。

カミさんも食いきれないほどの野菜を前によくそれを口にしている。
彼女は僕ほど無礼な人間ではないからなんとか食い切ろうと日々苦戦しているが、
それでも「ものを美味しく食べようって気のない心にはめげる」と愚痴をこぼす。
僕にとっても彼女にとっても食の基準は食えるか否かではなく、
あくまでも美味いか不味いかだと思う。
何度も言うようだけれど食い切れないほどの野菜を作り、
それを食い切るために続ける日々の戦いは苦しく空しい。

今朝散歩しているときに僕はカミさんと選択肢について話した。
どんな物事に対しても、選択肢の数は喜びと可能性に比例すると僕は思う。
右のテーブルには大根20本がある。
左には大根と人参とピーマンと玉葱と筍とホウレン草とアスパラが5つずつある。
さてどちらのテーブルの方が美味しい料理を生み出すでしょう?
答は自明。選択肢とはそういうものだ。
「だけどこの大根すごく美味しいから」と自らに言い聞かせて右のテーブルに
着くのは詭弁による自己暗示でしかない気がする。

僕の住んでいる町ではまともなケーキを買うことは出来ないけれど、
クルマで小一時間走れば満足のいくケーキが買える。
その小一時間を惜しんで選択肢を自ら狭め、意味不明な理由を自分にでっちあげて
納得しようとするのは可能性や喜びを殺ぐ事になりやしないか?
「文化とは知の在庫である」という言葉がある。
つまり僕が日頃口にしているのはその在庫量=選択肢に他ならない。
コーヒーや味噌やスパイスを考えるとき、
混ぜ合わせる品種の数が多ければ多いほど美味しさの可能性は拡がる。
文化も在庫の情報量が多いほど淘汰と自浄によって良質になる。
人間たるもの文化的であれ、といつも思う。
それを放棄して食えるか否か、使えるか否かに甘んじた日は、
僕たちの生活そのもの、僕たち自身そのものが文化に見棄てられた時だ。




まとめtyaiました【Liberty of choice】 - 2012.06.25 Mon 08:02

めっきり耳を掻かなくなったひでじと残り少なくなった東京土産。身の回りからポツリポツリと「東京」の文字が消えてゆきます。どこへ消えていくのかというと僕の腹の中。辿
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